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1745年のアナポリスロイヤルの戦い(-のたたかい、英Siege of Annapolis Royal (1745))は、ジョージ王戦争中に起こった戦いで、フランスの、4回に及ぶアナポリスロイヤル奪還計画のうちの1つである。 == 歴史的背景 == アン女王戦争後、1713年にユトレヒト条約が締結され〔King George's War: Siege of Louisbourg 〕、アカディア(ノバスコシア)がイギリスに割譲されたが、その後この地の境界を巡っての対立が続いた。第二次シュレージエン戦争が始まった1744年〔木村〕には、英仏の抗争が再開した。フランスがイギリスに宣戦布告を行って交戦状態に入り、これが北アメリカの植民地にも飛び火した。フランスにとって、この戦闘はノバスコシアを奪還するためのこのうえない機会であり、ノバスコシアを居住地とするミクマク族が、アナポリスロイヤルやカンゾを攻撃した。カンゾがフランスに破壊されたため、アナポリスロイヤルがノバスコシアにおけるイギリスの唯一の拠点となった。アナポリスロイヤルの駐屯兵の人数は少なかったが、砦が修復されたこともあり、兵士たちは交戦を望んでいた〔。 最初の攻撃は、ミクマク族によるものだった。しかし彼らには大砲がなく、また、マサチューセッツから援軍が来たため退却させられた。フランスが攻撃を仕掛けたのは、8月になってからだった。フランソワ・デュポン・デュヴィヴィエが指揮するルイブールからの分遣隊、フランス兵50人、ミクマク族160人、そしてマリシート族70人の軍勢がアナポリスロイヤルを包囲した。最終的に、アナポリスロイヤルの指揮官であるポール・マスカレンは、フランス艦隊が救援に来たら休戦に応じると返答したが、艦隊は姿を現さず、結局10月までアナポリスロイヤルの包囲は続いた〔。なお、この時マスカレンは休戦に同意せず、一方で、デュヴィヴィエは戦闘意欲を欠いていて、休戦したがっていたにもかかわらず、艦隊を当てにしたため撤退を渋ったという見方もある〔DU PONT DUVIVIER, FRANÇOIS(1705-76) - Dictionary of Canadian Biography Online 〕。フランス軍はその翌年、1745年に再びアナポリスロイヤルを包囲した〔。 その一方で、1720年代に建設された、ロワイヤル島のルイブールの砦はイギリス入植地の脅威だった〔。この砦は、フランスにとって漁業や貿易の拠点でもあり〔、ニューイングランド船を苦しめるフランスの私掠船や、海軍艦隊にとっては格好の逃げ場でもあった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アナポリスロイヤルの戦い (1745年)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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